沿革・創業者ご紹介

創業者について

細谷 勇太郎(えんちょうまめ)初代園長

明治43年8月25日東京府西多摩郡瀬戸岡村(現あきる野市瀬戸岡)に四人兄弟の末子として産まれる。昭和4年福生尋常高等小学校(現福生第一小学校)教諭に就任。昭和46年福生第三小学校校長まで42年間、西多摩地域で教職に従事。昭和52年4月地域の方からの後押しもあり、昭和52年4月に古い日本家屋を借りてころりん村幼児園を開園する。

幼児期は(トンボの幼虫が)泥の中で過ごすヤゴの時代として、「大切なことは、幼児期の生活を保障し、お子さんが自己充実をしようとしている努力を温かく見守ること」と保育を行う。

幼児期はヤゴ時代

毎年、九月の初めになると、定期便のように赤とんぼが、あの端正な姿で、ころりん村(園)を訪ねてきます。 子供たちは、この季節のお友達と、よくまあ、あきずにと思うほど、手をかえ、品をかえて遊びます。
澄んだ秋空に軽快に飛翔するトンボも、その幼虫は、似ても似つかない水中にいるヤゴであるということを、田舎で育った大方は知っておられると思います。

私は残念ながら、トンボが卵から成虫になるまでの一代史を見ていません。けれども、あのスマートな、すべて空とぶために造られているようなトンボが、羽化前にすごすヤゴ時代(幼虫時代)は水中生活で、その体形といい、生活様式といい、およそ成虫とは別人(虫)で、これがトンボになるなどとは、思いもよらないものだということに、心惹かれます。

このトンボの幼虫ヤゴを、羽がない、空を飛ばない、身が軽くない等々の、成虫トンボの基準で評価する人がいるでしょうか?
無関心な人々は、そのまま見すごし、心ある者は、全く別人に見えるヤゴ時代に、否、そのヤゴ時代こそ、成虫ドンボの飛翔時代が育てられているという天の摂理、道化の妙に頭をさげるのではないでしょうか。
そして、この原点に立つとき、ヤゴ時代に最も大事なことは、水中生活を保障し、 ヤゴがヤゴとしての自己充実を期する懸命な努力を、あたたかく見守って あげることではないかと思います。

ところが、現在一般に、先生も、お母さんまでが、幼児をトンボとして評価しようしているのではないでしょうか。幼稚園の目標として、よい子とは、羽がはえ、空を飛べるトンボであって、ドロ水のなかにいるヤゴは、わるい子、いけない子としてあつかわれているのではないでしょうか。
そして、、、それゆえに、その教育方法(手段)として、ドロ水のなかにいるヤゴを真水に入れて、脱脂綿で洗うような過ちをおかしているのではないでしょうか。

見方をかえて、幼児をヤゴとみた場合、友だちどうしのけんか、まことに結構。いたずらをする、あばれてけがをする、どの一つをとっても、幼児期に、人間のヤゴ時代に、 超えるべき、通るべきステップであり、一人前になるための、生きる知恵となる 体験学習であると見るのです。

幼児期はヤゴ時代です。

『育てる』一一七号・昭和五八年三月二五日 より

沿革

昭和52年4月

保炉家(囲炉裏のある家)を細谷火工社長細谷政夫氏に拝借して開園。
土地約600坪、純日本風の木造2階建て、ケヤキの大黒柱やさわら材の浴槽まであったすばらしい家屋。周囲にはサワガニのいる川、トンボやチョウ、バッタのいる丘のある自然の中で園児はのびのびと遊んでいた。

昭和56年5月

菅生高校理事長島田久先生の全面的ご協力によって、プレハブ施設をお借りすることができて移転する。自然に恵まれていてススキの原や冬には1mにもなる霜柱が立つ秘境もある楽園であった。

昭和58年4月

現在のあきる野市菅生へと移転をする。

平成8年4月

開園20周年を迎える。

平成29年4月

開園40周年を迎える。

平成31年1月

児童福祉法第59条の2第1項の規定に基づき認可外保育施設設置届を東京都へ行う。

平成31年10月

幼児教育の無償化(幼保無償化)が始まる。共働き世帯などの一部家庭が無償対象となる。